色覚用語の転換へ~当事者からの提唱を

色覚用語の転換へ

       ~ 当事者からの提唱を

荒 伸直

 

 ひと昔前まで「色盲」という呼称はひろく流布しており、それを見聞きするたびに当事者本人・家族の多くは心を痛めざるをえませんでした。世間もこの言葉から予断と偏見をいや増し、また進学・就職などでの制度的な障壁もいっそう補強される、といった不条理な悪循環のループ、負のフィードバックが定着していたのです。

 本会では15年ほど前から、私たち当事者をとりまく「社会的バリア」を3つの側面から構造的にとらえてきました。すなわち、

1)進学・就職などの「制度面」

2)生活空間における「物理面」

3)偏見や差別などの「意識面」

3面のバリアとして、さらには長年にわたる色覚検査制度こそが、それらの特に1)制度面のバリアと3)意識面のバリアを助長・増悪させてきた巨大な温床に他ならないとして、旗幟鮮明に問題提起してきたところです(本会リーフレット参照)。

 そうした取り組みのなかで現在、「色覚異常」とか「色覚検査」など色覚をめぐる用語法が、社会的バリアの一層の定着・拡散をやはり推進している現実を否定できません。そこで今回、いくつかの色覚用語について少し掘り下げて「検査」、評定してみたいと思います。

 

1「色覚異常」の評定

 眼科の業界で戦前から長らく護持されてきた「色盲」という用語は、昭和の終わり頃から一部「色覚異常」へ切り替わりはじめ、15年ほど前に業界内では最終的に死語となりました(日本眼科学会・眼科用語集第5版・2005年)。むろん市井ではタイムラグがあり今もその残響がかなり流れていますし、何より代わって登場した「色覚異常」という新手の業界用語もまた、はたして適切なのでしょうか?

 そもそも「正常/異常」の区別・判定は眼科的な<検査>の土俵上の議論で、生活世界での色彩識別の<実像>とは別次元の話にすぎません。厚労省(さらに[文科省])も20年ほど前の規則改正の際に「知見の蓄積により、色覚検査において異常と判別される者であっても、大半は支障なく業務を行う[学校生活を送る]ことが可能であることが明らかになってきている」とそれぞれ根拠を通達しています。

 さらに日本遺伝学会は3年前、遺伝用語の全面的な見直し作業のなかで、特に「色覚異常」に代えて「色覚多様性」を提唱しました。前述のとおり大半は生活上ほとんど支障がないこと、男性の20人に1人と数多く発現していることを理由としていました。当事者はたしかに多数派とは色の見分け方に多少とも違いがありますが、ヒトの集団を観察するとき、そこには「個体差」の生む連続的なバラツキの分布、「多様性」が認められるわけです。

 他方で、一人ひとりの視点からみると、「私には色覚多様性があります」という表現はややしっくりこないところがあります。当事者からすれば主に多数派との違いなので、「色覚相違(差異)」「少数派色覚」などが適切と思われるゆえんです。なお、「私は色覚多様性者です」も同様で、「色覚相違(差異)者」「少数派色覚者」などが浮かびますが、いくぶん生硬な印象を否めませんので、できうるかぎり「色覚当事者」という呼称を使用する方がむしろ適当ではと思われます。つまり、次のような転換です。

 

 色覚異常  ⇒ 色覚多様性 ※集団対象

         色覚相違など ※当事者対象

 色覚異常者 ⇒ 色覚当事者 

 

2「色覚検査」の評定

 ほとんどの会員は毎学年の健康診断でトラウマとなるような不快きわまる記憶が消えていないことでしょう。長らく「色神検査」「色盲検査」と呼ばれていましたが、近年主流となっているのは「色覚異常検査」、さらには「色覚検査」です。

 一般に色覚の検査法には、これら本来スクリーニング(1次ふるいわけ)用の「仮性同色表」(ほぼ石原表)によるもののほか、「色相配列テスト」(パネルーⅮ15など)、確定診断とされるアノマロスコープなど数種類ありますが、いずれにしても「眼科的」な検査法なわけです。このほか高柳顧問が考案されたカラーマッチングテストなど現物による「非眼科的」な判定法やCMT(カラーメイトテスト:金子元会長との共同開発)などもありますが、眼科医会の理不尽な反発もあり普及には至っていません。

 つまり一般に「色覚検査」と称されているのはあくまで「眼科的」な判定法であり、前述のとおり生活世界における「現実」の色彩識別の質量とは異次元のものなわけです。加えて、ほぼ1世紀にわたり学校や職域で「制度的」に組み込まれるなど、海外にほとんど例を見ない特異な選別と排除の道具となってきました。厚生省も「色覚検査現場の色彩識別能力を反映するものではない」とまで啓発しているにもかかわらず、いまだに漫然と旧慣が残存しています。私たちは「検査」と聞くと、特に医療の検査に対しては、無意識のうちに「有用で善なるもの」との予断が社会文化的に刷り込まれていますが、それを相対化する自立した視点も必要ではないでしょうか?

 したがって、これらの検査について当事者団体の見地からは「‟眼科的”色覚検査」、さらにはほとんどの場合は「‟制度的・眼科的”色覚検査」と、その限界や特異性を顕示する呼称・用語法を選択し、提唱すべきでしょう。つまり、次のような転換です。

 

 色覚検査 ⇒ (制度的)眼科的色覚検査

 

終わりに

 もとより、用語法はいわば2次的な問題であり、本丸は社会的バリアや検査制度自体にあります。いわゆる「言葉狩り」は本末転倒と言えるでしょう。しかし他方で、呼称の広範な流通と定着は前述のとおり、本丸に負のフィードバックを再生産している現実も否めません。ならば用語を問い補正することで悪循環を押しとどめる力も生まれることでしょう。

 むろん本会が以上のような呼称に代えはじめ、ひろく世に呼びかけたとしても、会の力は知れたものでは、という異論があるかもしれません。しかしそれもわきまえつつ、私たちの考察と実感に根ざした用語法を当事者の私たちこそが提唱することはけっして無意味ではなく、そこから新しい歴史の一歩がはじまるのではないでしょうか?人権や差別に理解とセンスをもち、各分野で地道に取り組んでいる人々・グループとも連携を模索しながら、息長く運動として取り組んでいければと思いを描く次第です。

 

(註)

* 15年ほど前にとりまとめ作成・配布しはじめた会のリーフレットのなかで、色覚の違いについて「色覚異常」を拒み「色覚の差異」と表記しました。「差異」という呼称は障害学において有力な「差異派」も念頭に置いたものとして提唱しましたが、当時からいくぶん気がかりな面もありました。というのは「格差」の「差」や「異常」の「異」という負のイメージを連想させる語感がこの国では否めない点でした。そこで本稿では、意味はほぼ同じものの「差異」よりも「相違」が適切ではと考え、「色覚相違」と提唱することにしました。なおもとより、ふだんの語りでは「色覚の違い」の方がなめらかでしょう。

 また、一部では「少数色覚」がひろく提唱されています。多数派と違う少数派(マイノリティ)の色覚という意味で、発想には基本的に共鳴するのですが、「少数」と表記すると「色覚そのものが少数、少ない」との誤解を招きやすいと思われます。そこであえて「少数派色覚」と提唱した次第です。

 

 いずれにせよ、それらを含め今回一つの案として提起したものですので、率直に意見を交わしていければと思っています。