疑似体験

●会報62号(2020/7発行)に掲載した、てっぱいの会幹事石林紀四郎さんの文章です。ご意見・ご感想等ありましたら、てっぱいの会へのメールでお願いします。

 

疑似体験                        

     石林紀四郎

 

今年は延期されたが、2度目の東京オリンピックだというのでマスメディアではパラリンピックの種目をいろいろ取り上げて解説した。ブラインドサッカーなどを視覚障がいの選手たちが、まるで目が見えているかのようにみごとに反応してボールを捉えたりするのをみて感動の声が上がる。そこにタレントを動員して疑似体験をさせると、まったく歯が立たず翻弄される。改めてパラのアスリートの凄さを知る。素晴らしいことだ。

育児教室などで若い夫婦が来て、夫がおなかに重りを付けて動いてみて妊婦の大変さを体験するなどというのもある。

最近は小学校などで「高齢者や障者についての理解をふかめよう」と疑似体験を行っている。

高齢者は視野が狭くなるのでどれほど怖いか、危険かを体験しようとゴーグルを付けてみる。足が上がらなくて躓く危険を体験するために、重りをつけて歩いてみる……。など、それを補助する子供も貴重な体験をする。

学校や自治会など様々なところで、高齢者や障がい者が安心して生活できるよう優しく接しよう。いろいろな身体能力の違いを知り、その困難さを共有しよう。と取り組まれるようになったのは嬉しいことだ。 

車いすを例にとれば、手だけで漕いで行くことの大変さだけでなく、段差があるということがいかに重大かということへの理解が広がり、道路の段差をなくそうというのはいわば常識のようになった。その結果として身体障がい者が車いすで自力で移動がしやすくなった。 聴覚障がい者が信号を渡りやすくするために信号機の音に鳴り分けの工夫がされるようになった。

 しかし、いささか気になることがある。子供たちに目隠しをさせて疑似体験をさせると多くの子供が「大変だということがよくわかった」という。その通りだろう。

この体験学習はたしかに障がい者や高齢者を取り巻く世界がいかに多くの障害に満ちているかという現実への理解が進む一方で、障がい者への理解を経験の範囲に固定してしまうことも懸念される。「眼が見えないってこんなに大変なのだ、健常者に比べてあれもできない、これもできない、出歩くのも難しい、危険だ。だから助けてあげよう。」その優しさは大切だ。しかし多くの場合こうした体験学習は当事者抜きで行われる。そうするとここで終わるのではないだろうか。

実はもう一つ大事なのは「それでも、みな、それぞれの人生を豊かに送っている」ことへの理解ではないだろうか。

地元自治会で福祉部の仕事をしながら、疑似体験の様々なイベントの紹介に接していてそのことを感じる。「高齢者はこうだ」というのはひどく乱暴だ。だからと言ってその試みに反対するわけではない。それぞれ個性を持って、独自の人生を送ってきた人格を尊重する世界であってほしい。

 話はやや逸れるかもしれないが、最近はVR(バーチャルリアリティ)などと言って映画やTVで様々な情報が飛び交っている。これらも一種の疑似体験ともいえる。3次元のような映像と豊かな音響で、自宅に居ながら自然を体験し世界を旅行できる。その一方で、暴力や戦争などのリアルな画面の非現実が溢れて、若者たちがそれらにマヒしているということを憂慮する人たちも多い。

現実と非現実の区別がつかなくなって、人命を軽んずる風潮が広がっているというのだ。

 疑似体験はあくまで疑似であり、限界がある。その体験をしたから理解できたわけではない。そこから何を学ぶかは補助が必要ではないだろうか。その体験は事実ではあるが、高齢者や障がい者が感じているものとは違う。日々それを乗り越えて他の機能を使ったり、自ら能力を鍛えたりしながら克服している人間というものの素晴らしさをも知ってほしいのだ。

 私たちの会には「色覚異常」と言われてまったく迷惑でしかない人もいれば、私のように時には人の目を借りたい少し強度の人もいる。それぞれにニーズが違う。 色覚が違うというのはこうだろうと一律に決めつけられては困る。ましてや石原票で「異常」と判定されただけで、日常生活に全く支障のない人まで排除されたりするのはご免だ。このように見えるのだというのが正しいという正解を求めるのではなく、想像力を高めてほしい。