てっぱいの会 小田愛治
私の学齢期において毎年繰り返された学年始めの色覚検査には、一つの例外を除いてイヤでつらい思いしか残っていない。その例外は私が中学生だった時で、その日の色覚検査はなぜか村で唯一の開業医である老医師が検査をされていた。医師と記録係の先生を前に、どうせわからないと思いながら開かれた石原表に目を落とした。ページがめくられるたびに、「自分なりにこれらしいと思える数字」か「わからない」という言葉を繰り返した。何枚かの後「これは?」と問われてしばらくよく見て「26」と答えると、その医師に「ほうー、どうしてじゃ?」と聞き返された。私は指で検査表の一面を26となぞった。医師はしばらく黙って見ていたが「そのようにも見えるなー」「ねえ、先生」と隣に座っている先生に同意を求められた。先生は戸惑った様子で「えっ、えー」と答えられた。しばらくして「終わりじゃ」と言う医師の言葉で立ち上がり検査場を後にし、教室に向かいながら自分が認められたうれしさで涙をこらえるのに必死であった。今でもこの話を人前ですると、その時の情景が浮かんで熱いものがこみ上げてくる。
年を重ねてこのことを振り返るとき、その老医師のとった行動は、なんとか答えようとする中学生を目の前にし、かけてやれる言葉として出たのではないかと思うようになっている。真偽のほどはわからない小さな出来事であるが、私にとっては生涯忘れられない出来事である。
2017年の日本遺伝学会による用語変更で色覚多様性についてもニュースとなったとき、中国新聞という地元紙にこのことに触れたコラムが掲載された。その内容を紹介したい。
広島県の中南部に忠海という古い港町がある。現在、コンピュータソフトウェア著作権協会で専務理事を務める久保田裕さんという方がおられるが、久保田さんは電源開発技術者の父親の仕事で小学生時代をこの町で過ごされた。色使いが変だと同級生にからかわれたが、図工の先生は彼の多彩で独特の色合いを「その色でいい」「君しか引けない線、君しかわからない色で描きなさい」と励まし認めてくれたそうである。気をよくした久保田少年は夏休みにはほぼ毎日ミカンの段々畑に上り、眼下に広がる瀬戸内の美しい海を描いたという。これが著作権の仕事に携わる上で心の原点となっていると久保田さんは言う。父の仕事にあこがれ技術者になりたかった久保田さんであるが、色覚制限でその道を断念することになり、大学は法学部に進み紆余曲折の後、著作権に関わる現職に至っている。久保田さんが人生の節々で出合った困難に立ち向かうとき、勇気と励ましをくれたものの一つに、この先生の存在があり、その先生の言葉があったのだと思う。
子どもにとって信頼できる大人との出会いや自分が認められたという実感は、その子を成長させ、直面した困難に立ち向かう強い心を培ってくれるものであろう。そんな大人に少しでも近づきたいものである。
今、全国の学校で色覚検査が再開されている。その検査で「異常」と告げられた子どもたちに、周りの大人たちはどのような言葉を投げかけているのでしょうか?
それは文科省・眼科医会のいう「自身の色覚の特性を知らないまま不利益を受けないよう」とか「自分の色覚の特性を知ったうえで適切に対処する」であってはならないはずである。